やはり、とどこか冷静に納得する気持ちと。
同じぐらい、まさかという気持ちが湧き上がった。
やはり遊郭にきていたのだ。
俺なんて触れもしないのに、ここで一夜の情を交わしていたのだ。
だったら俺はなんなのだ。
他人から存在を隠され、触れられもせず、甘い言葉も言われない、俺の存在は恋人だなんてそんなこと言えない。
悲しみに押しつぶされそうだった。
今だって。
沢山の美女たちに囲まれている彼をこんな遠くから見つめるしかできない。
それはまるで今の彼との立場や環境のようでその遠さに改めて理解した。
「旦那様、全然お見えにならないから」
「寂しかったです」
「今日は泊まられるの?」
キャーキャーとはしゃぐ彼女たちに笑顔で対応している。
手馴れた感じに彼女達の言葉が事実なのだと後押しされる。
常連なのだ。
昔も、今も。
昔だけならどんなに良かったか。
付き合っていない昔なら、いくらだっていてもいい。だけど今は。
今は、俺がいるのに。
そう思うと苦しい。
「貴方は行かなくていいの?」
後ろから声をかけられて振り返ると、美しい女性が座っていた。辺りには誰もおらず、彼女だけがポツリと座っていた。
「私は、・・・新入りですし」
「そうね」
フフッと笑う。彼女はとても細く小柄だ。腕など掴めば折れてしまうのではないかというほどで、とても健康的ではない。
「あの人は、有名なのですか」
「えぇ。とってもお強い忍ですの。ここだけではなく、この街の常連ですわ」
美しい声なのに、言葉は毒のように体を蝕む。
赤く濡れるような唇は妖艶で惑わすように動く。
「強くて美しくて聡明で、みんなあの人の虜になる。でも駄目よ」
赤い唇がいびつに歪む。
まるでそれは嘗てアダムとイブが食べた禁断の果実のようだった。
聞きたくないのに、俺はその唇から目が離せなかった。

「あの人の心はもう十年も前に囚われてしまっているのだから」

囚われる。
十年も前から。
俺が彼と出会ってからまだ数年しか過ぎていない。
それよりはるか昔に俺ではない誰かに、彼はもう囚われているのだ。
彼の心はもうとっくの昔に、俺ではない、誰かのものだったのだ。
「ここじゃ有名な話よ。だから、彼は止めておきなさい。夢中になっては駄目よ」
キッパリと、ハッキリと。
釘を指すと言うかのように、正しく俺の心を打ちつけた。
だけどその忠告は、果たして何の役に立てただろうか。もうそんなこと不可能なのに。
俺は嫌ってほど彼に囚われているのに。
彼女はそう言うと立ち上がり、まっすぐと彼の元へ行った。
あんなに群れていた女たちもゆっくりと離れていく。
まるで、アーチのようだった。
結婚式で誰からも祝福される、バージンロードのようだった。
「綾葉」
彼が低い声で呼ぶ。
手を取り、肩を抱いた。細く少しでも触れると折れてしまいそうな肩を、まるで硝子細工に触れるかのようにそっと。
そして見つめあった。
「久しぶり」
「お待ちしておりました。カカシ様」
手と手を取り、歩き出した。
きっと。
きっと、このまま部屋へ行くのだ。彼女の部屋へ。だってここはそういう所だろ。
手を引いて、抱き合い、触れ合うのだろうか。

俺には、一度もそうしてはくれなかったのに。

玉砕覚悟だった。俺なんか相手にされないと分かっていた。
なのに頷かれて、舞い上がって。
そんなはず、ないのに。
なにかきっと訳があったのに。
馬鹿みたいだ。

呆然と見つめていると、一瞬だけ彼と目が合った気がした。




二人が消えたところをぼんやりと眺めていくと、遊女たちはぞろぞろと戻ってきた。
「はぁあ。今日も綾葉かぁ」
「仕方ないわよ。だって彼女は火の国の」
「あぁ、例の」
火の国。
そう言えば今朝同僚も言っていた。

「最近火の国から上玉の別嬪さんが数名来たみたいで利用客は増えてるらしい」

太夫クラスは部屋付きだ。わざわざ張見世に座らなくてもいい。ならばその噂とは違う人が来ているのか。火の国から。
なんだろう。すごく嫌な予感がする。
それは自身の第六感ではなく、忍としてのカンだった。
潜伏捜査で一番求められているのはカンの良さだ。状況がハッキリしない、様々な情報が錯綜する中、頼りになるのはそれだけだ。
周りに溶け込み、幾つかある情報を吟味し、危険を察知する。それが潜伏捜査なのだ。
警戒リストの中に、綾葉を入れた。カカシさんのことは、今はただの客としか見ないようにした。
段々、段々と昔の感覚が戻ってくる。
今やるべき事、必要な情報が頭に巡る。その中にプライベートのことなんて入れない。
集中しろ。
集中しろ。
目をつぶり念じるように呟く。
少なくとも仕事のことだけ考えていれば、胸は不思議と痛まない。
私は『ナギ』だから。
イルカの感情は、里に戻った時、好きなだけ泣けばいい。
ゆっくりと目を開けた。
私は『ナギ』だ。
困惑したように、ゆっくりと人の輪に入っていった。
「例のって、何ですか?」
そう言うと一瞬怪訝そうにされたが、俺の顔をみて納得したように笑った。
「あぁ。貴方新入りさんね」
「知らないわよね」
クスクスと笑う。女は基本噂好きでお喋りだ。聞けばある程度喋りたがる。特に人の噂は。キョトンとした表情をすると彼女たちは嬉々として教えてくれた。
「はたけ様が火の国からお気に入りを何人か連れてきたって噂よ。わざわざ行くのが面倒だからって」
「最もそのお気に入りも色々やらかしたって聞くわよ。だから相手の店も許したとか」
「あら、私は大名に気に入られ側室になったけど、余りの寵愛っぷりに正室が怒り狂って追い出したって聞いたわよ」
「フフッ。知らないの?火の国で大名の娘が売られたって話」
「何にしてもワケアリよね。美人だけど」
「はたけ様のお気に入りですもの。彼はお気に入りしか相手しないから」
「でもあの人いいわよね。お金惜しみなく払ってくれて」
「確かに!あの大宴会凄かったわね」
「ここにいる遊女を全員集めて大宴会したわよね。しかも何度も」
「寝る相手は僅かだけど、ああやって大盤振舞するところを見るとさすがよね」
「花街狂いも彼なら様になるわよね。まるで野原を渡り歩く蝶のよう」
必要な情報だけ拾いあとは流していく。
一々そこに感情を含まない。情報に必要なのは感情ではなく客観的根拠だ。それを冷静に受け取れないなら諜報任務など辞めてしまえ。
(だけど・・・)
どこまで本当か分からない彼の噂。俺の知らない彼の側面。
好きな人のことを知るのは嬉しいのに、彼のことを知れば知るほど嫌になっていく。
それがとても嫌だった。
それでも確実に情報をひろっていく自分に、まだやれると思わせてくれる。
「綾葉といえば、ほら」
「雪寧でしょ?」
少しトーンが落ちる。
雪寧。
俺の前にここへ潜伏していた、そして先日殺された楠木中忍の名前だった。
「雪寧ってこの間殺された・・・?」
そう言うと周りの女たちの顔は曇った。
「そう。例の遊女殺し」
「怖いわよね。無差別だもの」
「私たちが何したっていうのよ」
やはり遊女たちは正体不明の殺人鬼に怯えていた。遊女であるというだけで狙われるのだから仕方ない。
「その雪寧さんと綾葉さんが、何か?」
「仲が良かったのよ。特に綾葉が慕ってて。雪姉、雪姉って後追いかけてたから」
「死んでからの落ち込みようは酷かったわよね。あんなに痩せて・・・」
そう言われて彼女のあの異様な細さを思い出す。病気か何かと思ったが、まさかそんな理由だったのか。
「やっぱりあの人が怪しいわよね」
「そうそう。よく雪寧を指名してた」
「あの銀髪の」
銀髪ーー・・・?
その時女将から名前を呼ばれた。
「はいっ!」
いいところだったのに。チッと舌打ちしたくなるのを我慢した。
女将からの指名だ。恐らく関係者なのだろう。そちらも重要だ。
入口に目を向ける。
そこには男がたっていた。
着物を着ていかにもどこかの御曹司のような出で立ちだった。
「こんばんは」
笑顔のままコチラを向いた。そして分かるように合図を送った。
それは裏で動く同胞の合図だった。
表立って動く者は木の葉の支給着を着ている。警備と情報収集をするが、そこで全ての情報が集まるわけではない。だが、逆に言えばこれは囮になる。木の葉の里の忍は支給着を着ていると。それに警戒すればいいと。
裏で動く者は一見一般人やただの客として振る舞う。そして表立って聞けないことを探るのだ。ただ表立って同胞と会えないため、今回のように誰かを経由して情報を得る。
こちらも合図を送り、動いた。
「ナギ、気をつけて」
そばにいた遊女が声をかけた。
「あの人よ」
「雪寧をよく指名してた」
そう言われて、成程以前から動いている者なのだと理解した。だが、彼女たちの顔は怪訝そうで違和感を感じる。
「あの人は怖い人よ」
「最近罵声が酷くてこの店全部に響き渡るぐらい怒鳴ってたの。それにあの日、更に酷くて」

彼女たちは一斉に顔を合わせた。
「殺してやるって叫んでたの」

一瞬ヒヤリとしたものが体を駆け巡った。
同胞に、殺してやるなどと叫ぶたろうか。そこに私情は含まれていなかったのだろうか。
「彼が帰ってすぐぐらいかしら。雪寧が殺されてしまったの」
それは確かに怪しい。同胞だと分かっていても警戒はしたほうがいい。
何より裏切り者がいるかもしれないのだから。
彼に向き合う。
優しげで、どこか色気がある。出で立ちも美しく、華やかで派手だ。彼はそういう役割なのだろう。とても違和感がない。
ただ、髪が。
真っ黒の髪の一部が、異質のように銀色に輝いていた。




「泉といいます」
向かい合って座るとすぐに頭を下げられた。
「雪寧、いや楠木中忍の代わりらしいね。チャクラは感じないけど一般人?」
「は、はい。普段はお店で働いているのですが、たまたまご縁があって。繋ぎです」
「ふぅん」
意味深に頷かれ眉を顰める。
「何ですか?」
「似ている人がいてね。気の所為かもしれないけど」
そう言われてドキッとする。いや、俺には似ていないはずだ。術も綱手様が直々にしたので大体の人は感知できないはずだ。
「気のせいですよ。私は天涯孤独ですし」
「そう。変なこと言ってごめんね」
あっさりと頷いた。
「現在この任務にあっているのは五人。表部隊三人と裏部隊二人。君は仕入れた情報を確実に各自と里に伝えて」
「はい」
「今日表部隊の一人が来たよね。報告して」
「先日の遊女が二人殺された件について、手口から同じ犯人だといわれました。ただ、楠木中忍はまるで急に殺さなければならないように殺されているという見解でした」
「他には」
「他には・・・」
そう言われて先ほどの男の顔を思い浮かべる。
どこか興奮したように言っていた。

「毛髪だ。彼女の手のひらに血とともにからまっていた。とても珍しい色だったから、いい証拠になると思う」

珍しい色。何色とは言われなかったが、彼も髪の一部は珍しい色をしている。
つまり容疑者の一人だ。
ここで言うべきか。だがそのことで証拠品が盗まれたらどうする?ようやく掴んだ証拠を。
(・・・いや、賢明ではない)
明後日綱手様に渡すと言っていた。報告はそれからで良い気がする。今一番重要なのは毛髪の保管だ。知られないに越したことはないだろう。
なによりそこで誰の毛髪かハッキリすれば犯人にたどり着く。情報は最小限に留めていたほうがいい。
「いえ、特になにも」
泉は頷いて、茶を飲んだ。
「お酒でも運びましょうか?」
「んー。そうすると人恋しくなるんだけど」
意味深に笑われて、またかと肩を落とす。
なんでこうも何度も誘われるのだろうか。
確かにここはそういうところで、雰囲気にのまれるのもあるかも知れないが、手近に手を伸ばしすぎてないか。もっと他にもそれこそ本職の綺麗な人がいるだろう。
「すみません。私は今はこの仕事一本なので。よければ他の人呼びましょうか?」
「あー、いやいいよ。こういう仕事してるとね、信用できる人しか傍に寄らせたくないんだ」
そうか。そういうものか。
「雪寧さんも、ですか」
何となく会話の流れを止めない範囲で聞き出せそうで、声をかけた。
すると泉は顔色ひとつ変えず笑った。
「・・・そうだね」
それはどういう意味の笑いだろうか。
少ない情報では、彼の心境など何一つ分からなかった。

だけど、ただの同胞に向ける感情ではない気がした。

ちょいちょいと手招きされて、何だろうと近づくと腰を掴まれた。
「ギャッ!」
「色気のない悲鳴」
ククッと笑われたがそれどころじゃない。まさか力ずくでヤられるのかとヒヤッとしたが、泉は俺を座らせると足に頭を置いた。
「こーゆー寝るは別料金?」
悪戯っぽく笑われて、もう怒る気力もない。
長身なのに体を丸めて寝る姿は小動物を思い出す。何だか可愛くなってきて、頭をなでると嬉しそうに目を細めた。
「一時間だけ眠らせて」
彼はそのままごろりと横になり、目をつぶった。
よく見ると顔が幼い。長身で雰囲気が大人の気がしたから同世代か年上だと思っていたが、恐らく年下だ。
こんな人が錯綜する世界なのだ。
そういえば昔、よく膝枕を強請られた。
もう十年も前。ある城の跡継ぎ争いに駆り出されたときだった。潜伏捜査を始めて二年目で初めて大きな仕事を貰えて有頂天だった。
木の葉の里は正室の子ども側だった。俺は彼の小性として身の回りの世話をしつつ、内部を調べていた。
(まさかその子どもに惚れられるとは・・・)
子どもと言っても俺より少し年上だったが、言動が子どもそのものだった。最もその言動は俺の前にだけだったらしいが。
どこにも行かないで、傍にいて、誰とも話さないで。
おかけで酷く手を焼いた。
彼の生い立ちや内情をみると、まるで母親を求めるようにも感じ、捜査とは別に彼の相手をしていた。本当に母親代わりと思っていたのに。
『貴方が好きです』
今でも耳に残るあの情熱的な声。
『貴方が、好きです。貴方がいるなら他には何もいりません。貴方がいないのなら』
別れの日。
縋って、縋って縋って。
どうかこのままここに残って欲しいと泣き縋る彼を引き離すのにどれだけ苦労したか。
『私は、生きている意味を失います』
彼はよくそう言っていた。
その後彼はどうなったのか、俺は知らなかった。


泉は一時間きっかりに目を覚ました。
気恥しそうに頬をかいた。
「なんだか不思議な感じがする。こーゆーの癒し系っていうの?」
「お疲れだったんですよ」
「俺、結構膝枕に夢見てるの。今日のは最高ランクに良かったよ。またしてね」
嬉しそうに言われると悪くない。たかが膝枕だ。例の任務で嫌という程していて、人並以上に痺れなくなっている。まさかまた人にするとは思わなかった。
そのまま連れ立って部屋を出た。
その時前の部屋が開いた。どうやら向こうも帰るところらしい。気にせず進もうとすると、泉は動かなかった。
部屋から出てきた女は恐ろしい形相でこちらを、いや泉を睨んでいた。
「薄情者」
吐き捨てるかのように冷ややかに叫んだ。
「雪姉が死んで、すぐに別の女ですか?所詮その程度しか愛してなどおられなかったのですね」
雪姉。
そんなこと言うのはただ一人だった。
乱れた服装、髪や化粧に一瞬誰だか分からなかったが、よく見れば綾葉だった。
つまり、部屋から出てきたということは。
「綾葉」
にゅぅっと白い手が伸びた。
「風邪ひく」
着崩れた着物を簡単に整えさせる。それが誰だかわからないとは言わせない。
部屋から出てきたカカシさんは、気だるげで、隠しきれない色気があった。

ここで、確かに彼は綾葉を抱いていたのだ。

吐き気が込み上がってくるのを何とか堪える。
少しずつ、少しずつ。
今まで目を塞いで見えないようにしてきた現実がまざまざと突き出される。
俺にはひとつも、指一本ですら触れなかったのに。
そんなに女の肌がいいのか。
そんなに俺は触れる価値のない男なのか。

だったら来るなよ。
俺の家に来るな。俺の前に立つな。

あの日フってくれた方がどんなに幸せたったか。
付き合うことがこんなにも惨めで苦しいものだとは知らなかった。
この恋の正体が、こんなにも歪で忌々しいものだとは知らなかった。

無理なら無理だと言ってほしかった。
悲しいけれど惨めではない。苦しくもない。寂しくもない。吐き気を伴うような嫌悪感などない。
ただ、好きでいさせてくれれば良かったのに。
俺の恋心を汚されていく気がした。彼の隣にたつ女が許せなくて、それに触れる彼の腕が憎くて、大好きな彼が、大嫌いになりそうだった。
俺はこんなに好きなのに。


ねぇカカシさん。
好きになってなんて言わないから。

俺の綺麗な恋を、どうか静かに愛させてくれ。

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