捜査を開始してから三日たった。
昨日は葵上忍だけで、他に客も来ず寝ていた。報告も里に帰る必要もなく、昼になると暇を持て余していた。
遊女たちは寝ているだろうか。
聞きたい事は山のようにあった。
誰でもいいから捕まえようとか足を庇うフリをしながら部屋から出た。
長い廊下をゆっくりと歩く。寝息が聞こえ、恐らく皆眠っているのかと思った。
そうなると下男か。
ふぅ・・・と小さく溜め息をついた。
「ナギさん」
目の前の扉があいて、にゅっと腕が伸びた。白く、細いその腕は見覚えがあった。
ドキッと心臓が跳ね上がる。
この光景は一昨日、見た。
彼女が部屋から出てきて、それで。
それで。
着崩れた、事情を漂わせるような彼が出てきた。
ゴクリッと唾を飲んだ。
嫌だ。
頭が拒否するのを必死で抑える。
嫌だ。
ーー仕事だ。
嫌だ。
ーー彼女に聞けば重要な話が聞ける。
見たくない。
ーー誰がいたって関係ない。
彼がいる。
ーー関係ない。
俺の恋人がいる。
ーー関係ない。
任務だろ。しっかりしろ。
「綾葉さん」
にっこりと笑うと、痩せこけた顔で白い歯を見せた。
「お散歩?」
「昨日は夜に寝たので、暇で」
「お話しましょ?ね?」
細い腕で俺の手を掴んだ。力は弱い。少しでも動かすと折れてしまうのかと思ってしまうほどだ。
「喜んで」
頷き、彼女の部屋に入った。
そこには誰もいなかった。
当たり前だ。客がいるのに他の遊女など呼び止めるものか。
動揺して、そんな事も分からないなんて。
馬鹿みたいだ。
どこが冷静にそう思いながら畳の上に座る。
「ご飯は食べた?美味しいお菓子あるの。どうかしら?」
嬉しそうに笑いながら、手にした小瓶には金平糖がぎっしり入っていた。
「これ、美味しいのよ。綺麗でしょう?」
「いただきます」
匂いを確かめ、小さくひと舐めしたが怪しい味はしなかった。食べると心地よい甘みが口に広がる。
「これ、雪姉から貰ったのよ」
雪姉。楠木中忍。俺の前に潜伏調査にあったていたくノ一だ。
そして先日、何者かに殺された。
「雪姉はね、優しくて、しっかりしてて、美しくて。私、とても憧れていたの」
綾葉さんはどこか夢心地のように語った。
「優雅に動く指がとても好きだったの。その指で私の髪を撫でてくれたわ。滑らかに美しく動いたの。私あの瞬間は髪になりたかった。まとわりついて指に絡めていたかった」
相当仲良かったらしい。愛おしく語る彼女の姿は痛々しく、うっとりしながらもどこか狂気を感じた。まるで彼女の心の拠り所は楠木中忍だけのようだった。
もしかしてこんな風に痩せこけたのも、彼女の死が原因なのかもしれない。
そう思うとやり切れない。
「犯人の心当たりはありますか?」
そう言うと。
にたぁっと、想像を超えるほど人外的な顔で笑った。
ゾッと背筋が凍った。
人とは思えない、悍ましい顔だった。
「あの男・・・」
歌うように高らかに。
「泉よ」
彼女はそう言ってまるで叫ぶように笑った。
「何もかもアイツのせいよ。私は絶対仇をとってやる・・・っ!!」
それはまるで怨念のように。
かつてこれほど誰かを恨んだ人を見たことがあるだろうか。呪い殺すかのように睨みながら、口は禍々しく笑っていた。
彼女は確信してるのだ。
泉が、犯人だと。
「・・・証拠はあるのですか?何か見たとか」
すると途端元の顔に戻り、ふふっと妖艶に微笑んだ。
「ないわ」
あっさり言うので拍子抜けした。
「でも分かるの。私、雪姉のことなら何でも」
そうしてまた夢心地のように、俺ではない誰かに微笑む。
証拠がないなら彼女の証言は信用性に欠ける。どこか虚ろで危うい彼女の言い分を聞くにはメリットがなさ過ぎた。
(次へ行こう・・・)
これ以上なにか聞けるとは思えなかった。
「私、そろそろ・・・」
「ねぇ、貴方。私と取引しない?」
立ち上がろうとする俺の腕を華奢な彼女の腕が掴んだ。決して強くないが、くいこむ爪が痛かった。
逃がさないと目が語っていた。
「取引・・・?」
「私、泉のこと知りたいの。何でもいい。だけどあの男は滅多に客を取らないの。情報がほしいのに滅多に姿をあらわさない。私は外に出ることが出来ない」
それはそうだ。
彼は木の葉の人間で、調査で来てるのだから。
そして遊女は滅多に外には出れない。
逃げられないために。
それが運命なのだ。
「あの男、貴方を気に入ったわ。きっと近いうちまた来る」
それは女の直感か。
それとも執念か。
その考えは当たっていた。彼はきっと俺に会いに来る。ただし仕事としてだ。
だが、里の仲間の情報など与えるわけにはいかない。どんな危害になるかも知れないのだから。
「そんなこと」
できるはずない。そう断ろうとすると、「その代わりに」とふわっと笑った。
それは確かな幸福めいた顔だった。
「はたけ様の情報を教えるわ」
その時身体中を駆け抜けた感情は、衝撃か。
それとも歓喜か。
彼女がもってる、彼の情報。
俺の知らない、彼。
それを知れる。
心臓が高鳴るのが分かった。
ひどく興奮して耳鳴りがする。
知れる。彼のことを。
彼との交際をバレることなく。
最も彼のそばにいる、この人から。
心臓の音がひどくうるさい。はぁはぁと荒い呼吸がどこか他人事のように感じた。
知りたい。
知りたい。
どうして俺と付き合っているのか。
どうして俺に触れないのか。
本当に俺のこと好きなのか。
彼に聞きたいことなど山のようにある。
今まで何度、何度全部ぶちまけて彼に問いただそうかとしたか。
そして何度それを飲み込んだか。
それらは全部嫌われないため。問いただしたり、責めたりして疎まれないため。
そうやって必死に彼に好かれようと心を殺してきた。
だけど。
本当に知りたいのか。そこに希望はあるのか。
どんな理由なら納得するのか。
女好きで、俺はただの遊び道具だったら。
俺とのことは事情があり、そのために嫌々付き合っていて、本当は別に愛している人がいるとか。
それを知りたいのか。
真実は決して優しいものだけではないのに。
「ナギさんは」
にこりと微笑んでいる彼女は、先ほどとは違い穏やかで優しい笑みを浮かべている。
この世の汚いもの全て削げ落とし、綺麗なものだけ集めた顔だった。
それはどこか、母に似ていた。
慈愛に満ちた目で見つめてくれた、いつも味方になってくれた、母に似ていた。
「はたけ様に、恋をされたのでしょ?」
少女のように無邪気に笑う。
その顔に、何故だか涙が溢れた。
「はい・・・」
堪らなく頷いた。
本当はずっと誰かに聞いて欲しかった。
彼のことを好きだと。
愛しているのだと分かってほしかった。
応援しなくていい。ただただ、俺の想いを知ってほしかった。彼を愛している俺を知ってて欲しかった。
俺の心は俺も、彼も、声を出すことを禁じた。
人に知られることを禁じたのだ。
まるでイケナイことのように。
だから誰でもいいから確かにそこにあるのだと認めてほしかった。
俺の恋は確かにここにあるのだ。
こんなにも強く思っているのだ。
名前も、姿も変えて。
ようやく、俺は彼への想いを口に出来る。
「はたけさんが、好きです、愛して・・・っ」
そう言ってワンワン泣いた。
次々と溢れ出て止めるものは何も無かった。
そんな俺を彼女は優しく頭を撫でてくれた。
まるで愛しいわが子のように。
「恋するって素敵ね。不毛でもいいの。この世で一番美しいことよ」
そう語る彼女はとびきり美しく。
幸せそうに笑っていた。
「はたけ様はね、私の恩人なの」
彼女は泣き疲れてボーッとしている俺にそう話しかけた。
「昔とても恐ろしい人に気に入られてしまってね、金にものを言わせて毎晩毎晩地獄のような生活をしていたの。ここの店とは大違いで、家畜のような生活をしていたわ。その店に売られたのも、人の良い両親が騙されてね、都に行けば綺麗な服着れてご飯もたくさん食べられるからって二束三文の金で私を手放したのよ。幸薄いわね、私」
フフッと笑った。それはよくある遊女の身の上話だった。
「はたけ様は、私が恐ろしい人に手篭めにされているのを、救ってくださったの。火の国からここへ連れてきてくださったのよ」
とろんとしたその目はまるで陶酔しているような目だった。
それは恋に似ていた。
「はたけ様が火の国からお気に入りを何人か連れてきたって噂よ。わざわざ行くのが面倒だからって」
初日に他の遊女から聞いた言葉が蘇る。
あれはきっと「お気に入り」なんて生易しいものではない。
「はたけ様のお気に入りですもの。彼はお気に入りしか相手しないから」
つまり彼は最初から適当な遊女と関係を持つつもりなどないのだ。
彼は、彼が信頼できる者しかそばに寄せない。
それは遊びというより・・・。
(まさか・・・)
何かの任務か。
もしくは何かを探っているのか。
そうなら、見て見ぬ振りをするべきか。
それとも探るべきか。
ますます彼がわからなくなってきた。
「はたけさんは、よくこちらへ?」
当たり障りのないことを聞いてみる。
「そうね。あと数人囲っているみたいだけど」
そこで、とろんとした目で着崩れた服を直した。
白い肌に浮かぶ、赤い印。
それをゆっくりと撫でた。
「私の肌が一番合っているみたい」
その言葉に。
ヒュッと、息を飲んだ。
手が動いたのは、一瞬。
彼女の喉を掻き切るように素早く動かす。
だけど思いに反して、その手は何のアクションもしなかった。
ダメだとどこか冷静に自分へ警告する。
殺しては、ダメだと。
彼女を殺せばとんな厄介なことが起きるか。今の状態でそんなことできない。
だけど心の中はぐちゃぐちゃに荒れ狂う。
やはり彼は女の肌が愛しいのか。
それなら。
そういうのなら。
俺はいくらでも変化するのに。
偽りの姿でも、愛してくれるのなら。
いや、愛さなくてもいい。
触れてくれるのなら。
指一本でいい、触れてくれるのなら。
俺はなんだってなれるのに。
「うふふふふ」
突然甲高い笑い声が響き渡る。
ハッと顔を上げると、彼女が可笑しそうに笑っていた。
「ナギさんこわい顔」
だめよ、女の子がそんなこわい顔したら、とあやす様に頬を撫でた。
「ごめんなさい。からかっただけよ」
うふふっと子どものように無邪気に笑う。
からかわれた。
その言葉に怒りよりも、安堵よりも。
ただただ、恥ずかしかった。
こんな素人に騙される自分が、恥ずかしくてたまらなかった。
真っ赤になった俺を、面白そうに撫でるのはひどく決まり悪い。
「はたけ様は、私に一度だって指一本触れたことないわ。興味がないそうよ」
可笑しそうに笑う。
「言ったでしょう?あの人の心はもう十年も前に囚われてしまっているの」
十年前から一人の人を想っているのか。
他を寄せ付けず、ずっと一人を想っているのか。
それはなんて莫大な愛なのだろう。
俺の恋敵は、そんな愛を一心に受けているのか。
「貴方は」
勝手に口が動く。
「悲しくないのですか?」
それは何に対して言っているのだろう。
誰に対して言っているのだろう。
俺の脳は全く使い物にならなかった。
ジッと見つめる俺に彼女はにこりと笑った。
「私はあの方の道具よ」
それが、それだけが真実であるかのように。
そこに不要な感情などなかった。
「はたけ様の幸せのために死ねと言われれば、死ねるわ。だけどもしはたけ様が愛してほしいと言われても、それはできないの」
赤い紅が禍々しく歪む。
「私の心はもう別の人にあげてしまったから」
うふふっと可憐に無邪気に笑う。
それは、なんだか美しいのに悲壮感が漂っていた。
だけど羨ましい。
彼女は確かに愛する人がいて。
その人のことをそんな愛しそうに語れるのだ。
「ナギ」
下男が顔を覗かせた。
「客だ。部屋に入れてる」
「分かりました」
「あら残念ね。こんな早くからせっかちな方ね」
「すみません、また」
「また遊びに来てね」
足をかばいながら立ち上がると、そっと彼女が足に触れた。
「痛そう・・・」
「ちょっと捻って」
「そう」
名残惜しそうに手を離した。
「・・・あの人」
「え?」
「昨日来た貴方の客、気をつけて。あの人はこわい人よ」
こわい人・・・?
葵上忍が?
どうしてそれを知っているのだろうか。
聞きたかったが下男に急かされてその場を後にした。
部屋に帰りながらふと思う。
誰が、来ているのだろう。
女将との協力で、客は取らなくてもいいことになっている。俺が下で見て、仲間か判断してから部屋に入ってもらうようにしていたのに。
それなのに、何故、既に、部屋に入っているのか。
「誰が裏切り者か全く検討がつかない。だから少しでも不審な動きを感じたらすぐに知らせてくれ。特に明日から急接近してきた奴は要注意だ」
昨日の葵上忍の言葉を思い出す。
ドクンっと胸が激しく脈打つ。
もしかしたら。
もしかしたら、犯人が証拠を取りに来たのかもしれない。
偽りの情報から、ここに証拠があると思って。
ならばと術を発動する。俺が指示すれば俺の脳の情報を瞬時に送れる特殊な術を。
ゆっくりと、扉をあけた。
殺風景な部屋に。
ポツンと。
まるで置物のように。
美しい男が優雅に座っていた。
「はたけ、さん・・・」
俺が名前呼ぶと、彼はニコリと笑った。
「特に明日から急接近してきた奴は要注意だ」
葵上忍の言葉が頭の中で響く。
どうして、このタイミングで。
俺のところに、彼はいるのか。
俺は術を指示することなく、ただ呆然と立ち尽くした。
昨日は葵上忍だけで、他に客も来ず寝ていた。報告も里に帰る必要もなく、昼になると暇を持て余していた。
遊女たちは寝ているだろうか。
聞きたい事は山のようにあった。
誰でもいいから捕まえようとか足を庇うフリをしながら部屋から出た。
長い廊下をゆっくりと歩く。寝息が聞こえ、恐らく皆眠っているのかと思った。
そうなると下男か。
ふぅ・・・と小さく溜め息をついた。
「ナギさん」
目の前の扉があいて、にゅっと腕が伸びた。白く、細いその腕は見覚えがあった。
ドキッと心臓が跳ね上がる。
この光景は一昨日、見た。
彼女が部屋から出てきて、それで。
それで。
着崩れた、事情を漂わせるような彼が出てきた。
ゴクリッと唾を飲んだ。
嫌だ。
頭が拒否するのを必死で抑える。
嫌だ。
ーー仕事だ。
嫌だ。
ーー彼女に聞けば重要な話が聞ける。
見たくない。
ーー誰がいたって関係ない。
彼がいる。
ーー関係ない。
俺の恋人がいる。
ーー関係ない。
任務だろ。しっかりしろ。
「綾葉さん」
にっこりと笑うと、痩せこけた顔で白い歯を見せた。
「お散歩?」
「昨日は夜に寝たので、暇で」
「お話しましょ?ね?」
細い腕で俺の手を掴んだ。力は弱い。少しでも動かすと折れてしまうのかと思ってしまうほどだ。
「喜んで」
頷き、彼女の部屋に入った。
そこには誰もいなかった。
当たり前だ。客がいるのに他の遊女など呼び止めるものか。
動揺して、そんな事も分からないなんて。
馬鹿みたいだ。
どこが冷静にそう思いながら畳の上に座る。
「ご飯は食べた?美味しいお菓子あるの。どうかしら?」
嬉しそうに笑いながら、手にした小瓶には金平糖がぎっしり入っていた。
「これ、美味しいのよ。綺麗でしょう?」
「いただきます」
匂いを確かめ、小さくひと舐めしたが怪しい味はしなかった。食べると心地よい甘みが口に広がる。
「これ、雪姉から貰ったのよ」
雪姉。楠木中忍。俺の前に潜伏調査にあったていたくノ一だ。
そして先日、何者かに殺された。
「雪姉はね、優しくて、しっかりしてて、美しくて。私、とても憧れていたの」
綾葉さんはどこか夢心地のように語った。
「優雅に動く指がとても好きだったの。その指で私の髪を撫でてくれたわ。滑らかに美しく動いたの。私あの瞬間は髪になりたかった。まとわりついて指に絡めていたかった」
相当仲良かったらしい。愛おしく語る彼女の姿は痛々しく、うっとりしながらもどこか狂気を感じた。まるで彼女の心の拠り所は楠木中忍だけのようだった。
もしかしてこんな風に痩せこけたのも、彼女の死が原因なのかもしれない。
そう思うとやり切れない。
「犯人の心当たりはありますか?」
そう言うと。
にたぁっと、想像を超えるほど人外的な顔で笑った。
ゾッと背筋が凍った。
人とは思えない、悍ましい顔だった。
「あの男・・・」
歌うように高らかに。
「泉よ」
彼女はそう言ってまるで叫ぶように笑った。
「何もかもアイツのせいよ。私は絶対仇をとってやる・・・っ!!」
それはまるで怨念のように。
かつてこれほど誰かを恨んだ人を見たことがあるだろうか。呪い殺すかのように睨みながら、口は禍々しく笑っていた。
彼女は確信してるのだ。
泉が、犯人だと。
「・・・証拠はあるのですか?何か見たとか」
すると途端元の顔に戻り、ふふっと妖艶に微笑んだ。
「ないわ」
あっさり言うので拍子抜けした。
「でも分かるの。私、雪姉のことなら何でも」
そうしてまた夢心地のように、俺ではない誰かに微笑む。
証拠がないなら彼女の証言は信用性に欠ける。どこか虚ろで危うい彼女の言い分を聞くにはメリットがなさ過ぎた。
(次へ行こう・・・)
これ以上なにか聞けるとは思えなかった。
「私、そろそろ・・・」
「ねぇ、貴方。私と取引しない?」
立ち上がろうとする俺の腕を華奢な彼女の腕が掴んだ。決して強くないが、くいこむ爪が痛かった。
逃がさないと目が語っていた。
「取引・・・?」
「私、泉のこと知りたいの。何でもいい。だけどあの男は滅多に客を取らないの。情報がほしいのに滅多に姿をあらわさない。私は外に出ることが出来ない」
それはそうだ。
彼は木の葉の人間で、調査で来てるのだから。
そして遊女は滅多に外には出れない。
逃げられないために。
それが運命なのだ。
「あの男、貴方を気に入ったわ。きっと近いうちまた来る」
それは女の直感か。
それとも執念か。
その考えは当たっていた。彼はきっと俺に会いに来る。ただし仕事としてだ。
だが、里の仲間の情報など与えるわけにはいかない。どんな危害になるかも知れないのだから。
「そんなこと」
できるはずない。そう断ろうとすると、「その代わりに」とふわっと笑った。
それは確かな幸福めいた顔だった。
「はたけ様の情報を教えるわ」
その時身体中を駆け抜けた感情は、衝撃か。
それとも歓喜か。
彼女がもってる、彼の情報。
俺の知らない、彼。
それを知れる。
心臓が高鳴るのが分かった。
ひどく興奮して耳鳴りがする。
知れる。彼のことを。
彼との交際をバレることなく。
最も彼のそばにいる、この人から。
心臓の音がひどくうるさい。はぁはぁと荒い呼吸がどこか他人事のように感じた。
知りたい。
知りたい。
どうして俺と付き合っているのか。
どうして俺に触れないのか。
本当に俺のこと好きなのか。
彼に聞きたいことなど山のようにある。
今まで何度、何度全部ぶちまけて彼に問いただそうかとしたか。
そして何度それを飲み込んだか。
それらは全部嫌われないため。問いただしたり、責めたりして疎まれないため。
そうやって必死に彼に好かれようと心を殺してきた。
だけど。
本当に知りたいのか。そこに希望はあるのか。
どんな理由なら納得するのか。
女好きで、俺はただの遊び道具だったら。
俺とのことは事情があり、そのために嫌々付き合っていて、本当は別に愛している人がいるとか。
それを知りたいのか。
真実は決して優しいものだけではないのに。
「ナギさんは」
にこりと微笑んでいる彼女は、先ほどとは違い穏やかで優しい笑みを浮かべている。
この世の汚いもの全て削げ落とし、綺麗なものだけ集めた顔だった。
それはどこか、母に似ていた。
慈愛に満ちた目で見つめてくれた、いつも味方になってくれた、母に似ていた。
「はたけ様に、恋をされたのでしょ?」
少女のように無邪気に笑う。
その顔に、何故だか涙が溢れた。
「はい・・・」
堪らなく頷いた。
本当はずっと誰かに聞いて欲しかった。
彼のことを好きだと。
愛しているのだと分かってほしかった。
応援しなくていい。ただただ、俺の想いを知ってほしかった。彼を愛している俺を知ってて欲しかった。
俺の心は俺も、彼も、声を出すことを禁じた。
人に知られることを禁じたのだ。
まるでイケナイことのように。
だから誰でもいいから確かにそこにあるのだと認めてほしかった。
俺の恋は確かにここにあるのだ。
こんなにも強く思っているのだ。
名前も、姿も変えて。
ようやく、俺は彼への想いを口に出来る。
「はたけさんが、好きです、愛して・・・っ」
そう言ってワンワン泣いた。
次々と溢れ出て止めるものは何も無かった。
そんな俺を彼女は優しく頭を撫でてくれた。
まるで愛しいわが子のように。
「恋するって素敵ね。不毛でもいいの。この世で一番美しいことよ」
そう語る彼女はとびきり美しく。
幸せそうに笑っていた。
「はたけ様はね、私の恩人なの」
彼女は泣き疲れてボーッとしている俺にそう話しかけた。
「昔とても恐ろしい人に気に入られてしまってね、金にものを言わせて毎晩毎晩地獄のような生活をしていたの。ここの店とは大違いで、家畜のような生活をしていたわ。その店に売られたのも、人の良い両親が騙されてね、都に行けば綺麗な服着れてご飯もたくさん食べられるからって二束三文の金で私を手放したのよ。幸薄いわね、私」
フフッと笑った。それはよくある遊女の身の上話だった。
「はたけ様は、私が恐ろしい人に手篭めにされているのを、救ってくださったの。火の国からここへ連れてきてくださったのよ」
とろんとしたその目はまるで陶酔しているような目だった。
それは恋に似ていた。
「はたけ様が火の国からお気に入りを何人か連れてきたって噂よ。わざわざ行くのが面倒だからって」
初日に他の遊女から聞いた言葉が蘇る。
あれはきっと「お気に入り」なんて生易しいものではない。
「はたけ様のお気に入りですもの。彼はお気に入りしか相手しないから」
つまり彼は最初から適当な遊女と関係を持つつもりなどないのだ。
彼は、彼が信頼できる者しかそばに寄せない。
それは遊びというより・・・。
(まさか・・・)
何かの任務か。
もしくは何かを探っているのか。
そうなら、見て見ぬ振りをするべきか。
それとも探るべきか。
ますます彼がわからなくなってきた。
「はたけさんは、よくこちらへ?」
当たり障りのないことを聞いてみる。
「そうね。あと数人囲っているみたいだけど」
そこで、とろんとした目で着崩れた服を直した。
白い肌に浮かぶ、赤い印。
それをゆっくりと撫でた。
「私の肌が一番合っているみたい」
その言葉に。
ヒュッと、息を飲んだ。
手が動いたのは、一瞬。
彼女の喉を掻き切るように素早く動かす。
だけど思いに反して、その手は何のアクションもしなかった。
ダメだとどこか冷静に自分へ警告する。
殺しては、ダメだと。
彼女を殺せばとんな厄介なことが起きるか。今の状態でそんなことできない。
だけど心の中はぐちゃぐちゃに荒れ狂う。
やはり彼は女の肌が愛しいのか。
それなら。
そういうのなら。
俺はいくらでも変化するのに。
偽りの姿でも、愛してくれるのなら。
いや、愛さなくてもいい。
触れてくれるのなら。
指一本でいい、触れてくれるのなら。
俺はなんだってなれるのに。
「うふふふふ」
突然甲高い笑い声が響き渡る。
ハッと顔を上げると、彼女が可笑しそうに笑っていた。
「ナギさんこわい顔」
だめよ、女の子がそんなこわい顔したら、とあやす様に頬を撫でた。
「ごめんなさい。からかっただけよ」
うふふっと子どものように無邪気に笑う。
からかわれた。
その言葉に怒りよりも、安堵よりも。
ただただ、恥ずかしかった。
こんな素人に騙される自分が、恥ずかしくてたまらなかった。
真っ赤になった俺を、面白そうに撫でるのはひどく決まり悪い。
「はたけ様は、私に一度だって指一本触れたことないわ。興味がないそうよ」
可笑しそうに笑う。
「言ったでしょう?あの人の心はもう十年も前に囚われてしまっているの」
十年前から一人の人を想っているのか。
他を寄せ付けず、ずっと一人を想っているのか。
それはなんて莫大な愛なのだろう。
俺の恋敵は、そんな愛を一心に受けているのか。
「貴方は」
勝手に口が動く。
「悲しくないのですか?」
それは何に対して言っているのだろう。
誰に対して言っているのだろう。
俺の脳は全く使い物にならなかった。
ジッと見つめる俺に彼女はにこりと笑った。
「私はあの方の道具よ」
それが、それだけが真実であるかのように。
そこに不要な感情などなかった。
「はたけ様の幸せのために死ねと言われれば、死ねるわ。だけどもしはたけ様が愛してほしいと言われても、それはできないの」
赤い紅が禍々しく歪む。
「私の心はもう別の人にあげてしまったから」
うふふっと可憐に無邪気に笑う。
それは、なんだか美しいのに悲壮感が漂っていた。
だけど羨ましい。
彼女は確かに愛する人がいて。
その人のことをそんな愛しそうに語れるのだ。
「ナギ」
下男が顔を覗かせた。
「客だ。部屋に入れてる」
「分かりました」
「あら残念ね。こんな早くからせっかちな方ね」
「すみません、また」
「また遊びに来てね」
足をかばいながら立ち上がると、そっと彼女が足に触れた。
「痛そう・・・」
「ちょっと捻って」
「そう」
名残惜しそうに手を離した。
「・・・あの人」
「え?」
「昨日来た貴方の客、気をつけて。あの人はこわい人よ」
こわい人・・・?
葵上忍が?
どうしてそれを知っているのだろうか。
聞きたかったが下男に急かされてその場を後にした。
部屋に帰りながらふと思う。
誰が、来ているのだろう。
女将との協力で、客は取らなくてもいいことになっている。俺が下で見て、仲間か判断してから部屋に入ってもらうようにしていたのに。
それなのに、何故、既に、部屋に入っているのか。
「誰が裏切り者か全く検討がつかない。だから少しでも不審な動きを感じたらすぐに知らせてくれ。特に明日から急接近してきた奴は要注意だ」
昨日の葵上忍の言葉を思い出す。
ドクンっと胸が激しく脈打つ。
もしかしたら。
もしかしたら、犯人が証拠を取りに来たのかもしれない。
偽りの情報から、ここに証拠があると思って。
ならばと術を発動する。俺が指示すれば俺の脳の情報を瞬時に送れる特殊な術を。
ゆっくりと、扉をあけた。
殺風景な部屋に。
ポツンと。
まるで置物のように。
美しい男が優雅に座っていた。
「はたけ、さん・・・」
俺が名前呼ぶと、彼はニコリと笑った。
「特に明日から急接近してきた奴は要注意だ」
葵上忍の言葉が頭の中で響く。
どうして、このタイミングで。
俺のところに、彼はいるのか。
俺は術を指示することなく、ただ呆然と立ち尽くした。
スポンサードリンク